かんたんビルマ史

簡易ミャンマー史

 

ミャンマーの簡単な歴史をおさらい!!知って旅したほうが絶対に面白い!!!

 

◆ ミャンマー黎明期

現在のミャンマーの国土の中で、最も古い時代に王朝があったとされているのは、ミャンマー北部で7世紀(6xx年ごろ)にピュー人が建国したピュー(驃)という国です。 832年、驃国は南詔に滅ぼされます、ピュー国に居たモン族とピュー族は南詔へ連れ去られたために、エーヤワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、その後、200年間にわたって王朝がなかったとされています。

一方、ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていました。ピュー国が滅んだ後、9世紀頃、下ビルマで今度はモン族のタトゥン王国が建国されます。

◆ パガン・ビルマ族初の王朝

1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。このパガン王朝がビルマ族の初の王朝ということになります。パガンは最初は小さな城市であったとされますが、初代国王のアノーヤター王(在位1044年 – 1077年)のもと、1057年には南部にあったタトゥン王国を滅ぼします。

他の数々の国と同様に、パガン王朝も13世紀にモンゴルの侵攻を受けます。1287年のパガンの戦いで敗北し、1314年、モンゴルによって滅びる事になります。

◆ モンゴルの去ったあと

モンゴルが去った後、下ビルマにはモン族が再び王朝を築きます。ペグー王朝 (1287年 – 1539年)を建国し、

一方、上ビルマには、ミャンマー東北部に住むタイ系のシャン族が、ピンヤ朝(1312年 – 1364年)次いでアヴァ王朝(1364年 – 1555年)を開き、絶えずペグー王朝と対立、攻撃をしかける時代が続きます。

◆ ビルマ族王朝再び

1486年、タウングーという地に流れていたパガン王朝のビルマ族遺民によって、タウングー王朝が建国されます。タウングー王朝はポルトガルの傭兵を雇い入れ、ペグーとアヴァ王朝を併合し、1559年には現東インドのマニプールを併合し、アユタヤ王朝やラーンナー王朝などタイ族や、チン・ホー族が住む雲南までをも支配することになります。

◆ タウングー滅亡まで

1612年、ムガル皇帝ジャハーンギールの下で、現バングラデシュ地域がムガル帝国の統治下に入ります。1666年にはさらにムガル皇帝アウラングゼーブが現ラカイン州に存在したアラカン王国へと攻勢をかけ、ついにタウングー王朝は広大な支配圏を失い、一時滅亡するに至ります。

ビルマ族の王朝が滅びると、再びモン族・シャン族が再興ペグー王朝を興します。1752年、一時は滅びたタウングー朝でしたが、アラウンパヤーが王を称しモン族・シャン族の再興ペグー王朝軍に反撃し、これを撃退します。1754年にビルマを再統一し、コンバウン朝と名前を変えます。

その後シャン族は清国に助けを求め、乾隆帝と共に国土回復戦争の清緬戦争を仕掛けます。しかし結局この戦いに敗れ、シャン族の国土回復の試みは失敗することになるのです。

コンバウン朝は1767年、タイののアユタヤ王朝を滅ぼし、以来タイはビルマの属国になりますが1769年にタークシン率いるトンブリー王朝が独立します。タイはその後に続くチャクリー王朝(1782年-1932年)にて、ビルマとは異なった親イギリスの外交政策をとって独立を維持することに成功するのです。

◆ イギリス来る

コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする3度に渡る英緬戦争を起こします。国王ザガイン・ミン治下の初期には、英緬間に緩衝国家としてアーホーム王国(1228年–1826年)が存在していたために、直接的なイギリスとの衝突はありませんでしたが、ビルマのアッサム侵攻(1817年–1826年)によってビルマに併合され、アッサムの独立が失われると、英緬国境が直接接触するようになってしまいます。ビルマは、インドを支配するイギリスに対してベンガル地方の割譲を要求し、イギリス側が拒否すると武力に訴えて第一次英緬戦争(1824年-1826年)が勃発します。ビルマは敗れ、1826年2月24日にヤンダボ条約が締結され、アッサム]、マニプール、アラカン、テナセリムをイギリスに割譲するに至ります。

◆ イギリスにボッコボコにされる

イギリスの挑発で引き起こされた1852年の第二次英緬戦争(英語版)で敗れると、ビルマは国土の南半分を失います。

イギリス統治下のビルマでは、イスラム教徒のインド人、中華系の華僑が流入して多民族多宗教国家へと姿を変えてゆきます。さらには周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させて下ビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策が行なわれました。その実態はインド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされるというものでした。この統治時代の身分の上下関係が、ビルマ人から山岳民族(カレン族など)への憎悪として残り、後の民族対立の温床となります。

残った上ビルマ(コンバウン朝)ですが、下ビルマを割譲した結果、穀倉地帯を喪失したために、清から米を輸入しすることになります。代わりにビルマは綿花を雲南経由で清へ輸出しました。しかし、1856年から1873年にかけて中国の雲南省でパンゼーと呼ばれる雲南回民(チン・ホー族)によるパンゼーの乱が起こり、雲南地域が荒れてしまし、交易路が閉ざされてしまいます。雲南貿易が閉ざされた結果、米をイギリスから輸入せざるを得なるのです。1885年11月の第三次英緬戦争でついに王朝は滅亡。1886年6月、英清ビルマ条約でイギリスは清にビルマの宗主権を認めさせると、ビルマはイギリス領インドに併合されて、その1州となるのでした。